南部藩の漢学者・勘定奉行佐々木直作(1817-1894)は、戊辰戦争の際、責任を問われ、楢山佐渡と共に罰せられるが切腹は免れ、沼宮内五日市のこの地に隠棲する。板垣で囲った粗末な草葺の家に住み、草木の蔭で世を忍びつつ、自らを板垣草蔭と名乗っていた。後に「草蔭塾」と呼ばれた私塾を開いて、子弟の教育に生涯を捧げるが、それは、寺子屋とは異なる、士族や郷士の子弟を対象としたもので、門下生の多くは、県北県央各界のリーダーとして育っていった。
後になって、教え子達から、「草の蔭では、あまりにも忍びない。」との声があがり、「桑蔭」と改められたとのことである。桑蔭は初代岩手郡長も務め、その信望の厚さは、周知のところであった。
その頃、この地では、毎月五日には市が立ち、人々はそれを心待ちにし、その日ばかりは大いに賑わったという。そして今では跡形もないが、裏山は山桜の名所で、桑蔭は殊の外、桜を愛でつつ、自らの家を“桜”と呼んでいた。
五日市 いつかと待ちし 五日市
桜の桜 今 咲きにけり
草蔭
桑蔭の長男政徳は、沼宮内小学校の前身・公立郷学校の初代教官で、同様に教育者として、世に貢献した。
桑蔭の孫の一人である、後の陸軍大臣征四郎は、この地で生まれ、明治27年、一家が再び盛岡に移り住む小学校四年生迄を過ごした。
大正初め、板垣一家が東京に引越すに当たり、桑蔭塾で訓育を受けた柴田家三代目兵右衛門が、敷地・家屋を買い受け、大正5年、新築をして、「桜山荘」と号し、現在に至る。
◆ 明治7年3月 柴田伊兵衛(兵右衛門の幼名)結婚に贈られた祝歌
新婚をことをぎで
みどりなる若木の松を植えならべ
巣ごもる鶴の宿と定めん
草蔭
板垣征四郎陸軍大臣は、先祖墓参の為、沼宮内を去ること数十年ぶりに来町。桜山荘を訪れ、昔のままの老木や産湯を使った井戸を眺めながら、しばし幼時を懐かしんだという。
現在、玄関上部に掲げてある桜山荘なる揮毫は、その折のものである。
この庭園の樹木の多くは、明治以前から存在するもので、特に池の端の
カツラの大木は、圧倒的な存在感をもって、薫香を放ちながら、長い歴史を見守ってきたこの地の象徴として、今なお、大地に力強く踏んばっている。
昭和5年、兵右衛門の跡を継いだ孫兵一郎は、先代同様、桜山荘には心を寄せ、はるばる那須高原迄出向き、オウサカヅキというモミジを、貨車一台買い込む等にして手を加えた結果、霜月初旬には、深紅のモミジが燃えたぎる程に競い合い、桜ならぬ“紅葉荘”に姿を変えながら、間近に迫る冬の静寂を前に、ほんの一刻の狂おしい程のパワーを見せつけてくれる。
そもそも桜山荘は、冠婚葬祭用として建てられたもので、沼宮内の大工棟梁八戸駒吉の施工である。
玄関に入ると、先づは目に入るのが、杉板一枚正目の四枚戸。片面には、弘前藩絵師七尾英鳳が半年間滞在して描いた春秋画が施されている。秋の紅葉制作中、実際に一羽の白雀が飛来して、それが枝に止まった様を、“これは吉兆”と早速に筆を加えたとのことである。
控えの間を右手に、座敷へと、庭に面した廊下の廻った三間続きは各十畳で、奥から書院造りの本座敷――中の間――仏間と続いている。座敷部分は、高床構造の為、湿気を呼ばず、その為か、保存状態は良好で、ほぼ当時のままの姿を残している。尚、襖絵も全て、七尾英鳳作である。
大正の雰囲気漂う、やや小ぶりではあるが、只一つの洋間は、その高天井と照明器具、スライド式窓は、当初のまま。
室内の南国風アイテムは、兵一郎が貴族院議員時代、南洋諸島視察(昭和15年)で訪れたパプアニューギニアより、持ち帰った品々である。
平成23年8月記